制限と矯正

森喜朗さんの一部の発言が女性蔑視の失言だとして炎上、更迭に追い込まれた。男女平等性別なんぞという声は昨今 特に強く叫ばれていて、私もそれが正しい考えであるべきだと思う。

 

当然  この類の問題はこの件に限らず、今や様々なところに火種が落ちており、熱心な方がそれを拾っては持ち主を探して練り歩いている。

 

しかし熱心な方の中には燃えた松明を持って歩いている方もいて、少しでも怪ければその本質にかかわらず その火で照らして燃やしてしまう。今や「女性の方が〜な傾向がある(マイナスな情報)」という統計学すら目の敵にしてしまう方がいる。これでは情報の発信を制限してしまうんじゃないだろうか。情報を制限してまっては、発信側は正しい発信を疎み、聞こえがいいだけのペラペラな「感想」しか言えなくなる。「この件についてどう思われますか?」「まぁでも人によりますかね!」「ですね!それでは次のニュースです。」みたいなプロのフグ刺しもびっくりの薄〜〜〜〜〜〜い感想でニュースが締め括られる。とかなんとか言っていると今度はアマのフグ刺し達が「アマのフグ刺しだって」とプリップリッと声をプリ上げて私を叩く。難しいよ多様性。

 

とは言いつつも、この男女平等性別なんぞの考えや熱心な人の存在を世界中に知らしめるに この機会を逃す手はないし、世界の平和のためには問答無用 大きい声で大袈裟に糾弾することが荒療治だが必要だとも思う。これまた難しい。

 

この行動は差別的な言論の「制限」じゃなく「矯正」となり得るだろうか。矯正となれば良いが それが制限でしかなければ、結局 一部の情報については本質を捉えた発信が難しくなる。

 

お笑いであったりライターなどは より一層気を遣った仕事が求められるのだろうか。バカリズムさんの一部の女性の真似を大袈裟にやるネタなど、元があっての笑いというのもあるだろうし、テレビでは使えないボケや例えツッコミなどは着々と増えているだろう。

 

結論として「何事もゴメンで済めばいいのに」と思う。(犯罪とかは除く)それが一番平和で簡単で良い。そう思わないかね 一度の失敗も許されない世の中よ。

 

頼んだやつ 全然来ないな。いや店員さんが忙しそうで声かけづらくて。